未熟者なのでミニスカの女子高校生描いてます :週刊少年サンデー2014/43号2014/09/12

絶チルは<成長>を主題に描き始めた漫画ですが、「大人になる」というのはどういうことなのかをつきつめていくと、<人格の成熟>の話になってくるように思います。でまあ、日々、駄目な大人なりにいろいろ考えるわけですが。


たとえば以前、素朴な疑問としてツイッターで
「車に『赤ちゃんが乗ってます』っていうステッカー貼ってるのに対して怒る人っているらしいけど、なんでだろう? 何が腹立つのかな」
って話をしたことがあるんですけどね。びっくりするほど早く反応が返ってきました。

「怒っちゃう派」の人たちの言い分は、たいていが
「子供が実際には乗っていないのに貼っていたりする」
「そのステッカーで他人に気遣いを要求する割にはそのドライバーが危険な運転をしていたりする」

ってことでした。要するに「親切にして損した」って思ったことがあるんですね。それを聞くと半分くらいの人は「怒っちゃう派」の人たちに同意できるんじゃないでしょうか。私もその人たちの気持ちはめっちゃ理解できました。たしかにそういうことがあるとムカっときますね。あるある。

・・・ただですね、理解できるんだけども、その理屈には情けない事実が隠れてることに気づきました。それは「損した」と思わされることがあったとして、その損というのはどのくらいの損失なのかっていう点です。
 いくら気を遣ってあげたって言っても、金を払ってやったとか、かばってケガをしたとか、そういうことであるはずがありません。せいぜい「合流で入れてあげた」「車間距離を少し広めにとってあげた」程度のことですよね。それくらいのことは普段から誰にでもどこででもやればいいことです。何の損もしてません。
 にもかかわらず、我々はそれを「一回でも大損だ」「できればしたくない」と思っているのです。たったそれだけのことでも、可能な限り他人に何の施しもしたくないというみみっちい気持ちが根っこにあるんですね。それが悪だとは思いませんが、あまりみっともよくはないので、声高に主張するような事柄では全然ないと思うのです。

 これはまあ他愛もない雑談だったし、件の人たちも雑談に乗っただけの悪気のない人たちです。なので、その場では「なるほどねー」とだけ言って、それ以上追い詰めないことにしたのですが、「善人でありたいと思ってる我々の心の中にも、盲点に入ってしまって気づくことの難しい、みっともない部分はあるという具体例だなあ」とは感じた次第です。


この件に限らず、私はそういった「盲点」のことを、「未熟さ」と呼ぶのかなーと思うのです。世の中にはもちろん悪人もいますが、この世にはそうでないのに問題を起こしてしまう人の方が多い。未熟さってのは程度問題で、未熟でない人間なんかいません。だからこそ自分にできるだけは成熟したいと願って、それを改め続けるのがまともな人間なのです。さらに、こういう間違いを絶対に許さないというのもどうかと。未熟な我々は日常生活で、こういうことをしょっちゅううっかり言ったりやったりしてしまいがちじゃないですか。それをあまりに厳しく責められると立つ瀬がない。責めた奴がヘマをしたときに大喜びでやり返すというのも情けない。

で、考えたんですけどね。私は愚かなことや不愉快なことを言う人を見ても、「バカ」とは呼ばず「未熟者」と呼ぶことにしました。「バカ」は他人をおとしめて傷つけるレッテルですが、「未熟者」はこれからの成長に期待する言葉なので、不明を正す近道ではないかと思うのです。そして自分が愚かなことを言ったりしたりしてしまったと気づいたときにはこう言うことにしましょう。
「わしもまだまだ未熟者よのう」